第2章 江戸の坂から東京を視る(本文)

一類の坂:キーワード(武家、町人階級)

 

新宿区相馬坂

新宿区相馬坂

その1「相馬坂」新宿区落合にある坂で、「おとめ公園」の西側にある坂です。江戸時代には将軍の狩り場として庶民立ち入り禁止区域だったそうです。明治に入り旧藩主の相馬家があったところからこの坂名の由来となりました。都心に近い割には、今も自然豊かな静かな環境は変わりありません。坂の途中に落合第四小学校、中学校があります。(ストリートビュー)

 

文京区網干坂

文京区網干坂

 

その2「網干坂」文京区白山と千石の境目にある坂で「小石川植物園」西側にあります。
江戸の昔には、坂の下まで入り江となっていて、漁師が漁網を干していたことからこの名前が付けられました。江戸の町がまだ湿地帯に囲まれ、海がこの辺りにまで入り込んでいたということになります。今では想像も出来ない情景です。(ストリートビュー)

 

 

 

 

新宿区南元町新助坂

新宿区南元町新助坂

その3「新助坂」新宿区信濃町にある坂で、昔この辺りに新助というお百姓さんが住んでいたといわれています。坂の名前に付けられるとは、大きなお百姓さんだったのでしょうか、あるいは人々に人気のあるお百姓さんだったのかも知れません。
この坂は急な坂で別名「すべり坂」とも言われていました。ビートたけしが若い頃バイクで事故を起こしたことでも知られるようになりました。今は、坂の上に創価学会の文化センターがあります。(ストリートビュー)

 

 

新宿区神楽坂軽子坂

新宿区神楽坂軽子坂

その4「軽子坂」新宿区神楽坂の裏手にある坂です。軽子とは、軽籠持の略称です。当時の飯田橋には船着き場があり、船荷を軽子に入れて江戸市中に運搬する労働者達が住み着いていたのでこの名前が付けられました。その後明治期を迎える頃になると、町は発展して料亭などが増えてきたようです。その中に今も現存する「うを徳」という料亭には尾崎紅葉、泉鏡花などの文人も訪れていたことでも良く知られています。紅葉は、ここの芸者桃太郎と所帯を持ったといわれています。
神楽坂には、今も芸者検番所があります。(ストリートビュー)

二類の坂:キーワード(寺社、仏閣)

 

本郷本妙寺坂

本郷本妙寺坂

その1「本妙寺の坂」文京区本郷にある坂、本郷台から菊坂に下る坂で、本妙寺という法華宗のお寺がありました。その名前をとったものです。今は、坂名のみが残っています。
本妙寺は、振り袖火事として知られる明暦の大火の火元になった寺といわれています。
この大火により江戸城の本丸天守閣にも類焼し、江戸市街の55%もの地域が消失したといわれています。亡くなった人の数は10万人にもなりました。当時の江戸の人口が50万人ともいわれていた時代です。噂話によると、本当の失火元は近くの大名屋敷からで、近くの本妙寺に罪を押しつけたのではともいわれています。(ストリートビュー)

文京区善光寺坂

文京区善光寺坂

 

その2「善光寺坂」文京区小石川にある坂です。坂を上って行くと名前の由来となった善光寺月山堂の朱塗りの山門が見えてきます。この坂を登り切った先の右手には、大きな椋の木があり、この辺りに文豪幸田露伴が一時住んだ「小石川蝸牛亭」があったところで、その借家を露伴に紹介したのは一葉の妹といわれています。樋口一葉もこの坂道を往復していたのでしょうか?想像して歩くのも楽しいですね。(ストリートビュー)

 

 

 

千代田区神田明神男坂

千代田区神田明神男坂

その3「神田明神男坂」千代田区神田にある坂で、元々は「明神石坂」と呼ばれていた坂です。明治期になって神田明神境内の北側に湯島に通じる坂として作られました。天保年間、当時の神田町火消し4組が石坂を神田明神に献納したとされています。
野村胡堂の小説「銭形平次捕物控」の中で銭形平次とその子分八五郎が、この明神下に暮らして、この辺りを舞台にして活躍します。境内には銭形平次の石碑も置かれています。銭形平次は小説の中の架空の人物です。

(ストリートビュー)

三類の坂:キーワード(地形、環境)

 

根津異人坂

根津異人坂

その1「異人坂」文京区弥生にある坂です。坂の形状が面白く、左右に曲がりながら上り下りしています。坂上には明治時代、帝国大学のお雇い外国人教師達が居住していたところで、当時外国人が珍しかったので、この坂名が付けられたようです。今は、あまり人の往来も少ない寂しい坂です。(ストリートビュー)

 

 

 

豊島区駒込染井坂

豊島区駒込染井坂

その2「染井坂」豊島区駒込にある坂です。右手に駒込小学校と左手に西福寺の墓地の間を北に下りていく坂です。駒込の旧地区名である「染井」にちなんだ名前です。この地はソメイヨシノ発祥の地でもあります。今や日本全国にその桜の木々が植えられ、日本を象徴する桜となっています。明治時代に奈良の吉野山の山桜と混同を避けるために染井吉野という名前が付けられました。(ストリートビュー)

 

 

 

文京区根津S字坂

文京区根津S字坂

その3「S字坂」文京区根津にある坂です。森鴎外の小説「青年」に登場する坂で、旧制第一高校の生徒達が「青年」を読み、好んでこの坂を上り下りしたように思います。S字坂というハイカラな坂名の名付け親は、森鴎外ともいわれています。
S字坂の元々の名前は、根津神社が建立された五代将軍徳川綱吉の時代に「新坂権現坂」とも呼ばれていました。(ストリートビュー)

 

 

文京区目白台胸突き坂

文京区目白台胸突き坂

その4「胸突坂」文京区目白台にある坂で、神田川から目白台に上るための坂です。周囲には椿山荘、永青文庫があり、坂の下には芭蕉庵があります。石段で出来ており、かなり急な坂であるため中央に鉄製のスロープが設けられています。坂を登ると和敬塾があります。大学の体育会系のトレーニング場としてもよく使われているようです。辺りは木々に囲まれて静かな雰囲気があります。(ストリートビュー)

 

 

 

 

 

四類の坂:キーワード(事件、出来事)

 

目黒区行人坂

目黒区行人坂

その1:「行人坂」目黒区下目黒にある坂で雅叙園西脇から北東へ、目黒川から目黒駅へ上る急坂です。坂の途中に、大円寺があります。江戸時代に権之助坂が開かれる前は、行人坂が主要な坂道であつた。今は権之助坂の方が主要な坂道となっています。
行人坂の名称は、湯殿山の行者が大円寺の大日如来堂を建てたことによって、多くの行者が集まるようになり、そこから行人坂と呼ばれるようになりました。(ストリートビュー)
この坂は、江戸三大火事の一つといわれた「行人坂火事」の火元になった処です。明和9年2月に大円寺から出火した火は、3日間も江戸の町を焼き尽くすことになりました。今もこの坂は急坂で知られています。

 

港区暗闇坂

港区暗闇坂

その2:「暗闇坂」港区麻布にある坂です。
別名で「くらがり坂」とも呼ばれています。昼間でも暗いほど鬱蒼とした木々が茂り、狭い急坂に覆いかぶさっていたといわれています。暗く見通しの悪い急な坂のため、妖怪とか幽霊が出没するという伝説がありました。
実際には、追いはぎなどが現れたようで、物騒なところの様でした。今歩くと、かなりの急勾配ですが静かな近代的なビルも建ち並び人出もほどほどにあります。物騒だった昔とはまるで様相が違った光景を目にします。坂の上にはオーストリア大使館などもあり、静かな坂です。

(ストリートビュー)

 

台東区中谷赤字坂

台東区中谷赤字坂

その3「赤字坂」台東区谷中にある坂です。かなりの急坂で明治の財閥、渡辺治右衛門の邸宅のあったところです。明治から昭和の初めに掛けて相場師だった治右衛門が株式仲介商として巨万の富を蓄え東京渡辺銀行を経営したが、昭和2年の大恐慌により破綻してしまいました。こうした状況を庶民が皮肉って「赤字坂」と命名しています。その前には「明治坂」などともいわれていましたが、ここにも坂の改名が行われていました。

(ストリートビュー)

 

 


五類の坂:キーワード(物語、小説等)

 

赤坂南部坂

赤坂南部坂

その1:「南部坂」港区六本木と赤坂の境にある坂です。坂の名前は、江戸時代の初期に南部藩の中屋敷があったことから、この名前が付けられました。歌舞伎の出し物として有名な「仮名手本忠臣蔵」があります。日本人好みの演劇として毎年映画、テレビなどでも上演されます。その劇中で大石内蔵助が討ち入り前夜の元禄15年12月13日、雪の降るなか傘をさして、坂の上の浅野内匠頭屋敷に主人の奥方揺泉院を訪ねます。密かに最後の別れを告げる「南部坂雪の別れ」の舞台にもなった坂です。今は、坂の途中にマンション、ビルなどに囲まれた狭い坂道です。

(ストリートビュー)

新宿区逢坂

新宿区逢坂

その2:「逢坂」新宿区神楽坂にある坂で、別名「美男坂」とも呼ばれています。時代は奈良時代に遡ります。この寂れた寒村に、(さわかずら)という可愛らしい娘が住んでいました。そこに(小野美作吾)という武蔵守がやって来て、この坂道で出会います。二人は恋仲となりますが、間もなく作吾は、官命を受けて、奈良の都に帰ることになりました。その後、奈良で病死してしまいました。娘の夢の中に作吾が現れ、何時もの坂で会うことを約束します。娘がいくら待てども作吾は現れません。こうした伝説に江戸庶民は感動して、この坂を「逢坂」と名付けました。
優しい江戸っ子の心意気が伝わってきます。今は、坂を下ると左側にフランス語学校「アテネフランセ」の校舎があります。坂の上には、高級マンション、大邸宅などが立ち並んでいます。(ストリートビュー)

 

文京区無縁坂

文京区無縁坂

その3:「無縁坂」台東区と文京区にまたがる坂です。坂の横にある無縁寺(現講安寺)が坂名の由来です。森鴎外の小説「雁」に、「無縁坂」が出てきます。医学生岡田とこの坂の途中に住む高利貸しの妾、お玉との出会い、そして、お玉と岡田はお互いに一目惚れ毎日のように岡田が坂道を散策するのを心待ちにしていました。お玉は不運にも岡田に自分の心を打ち明けるチャンスが来なかった。そのことを知らない岡田は、お玉に黙って勉学のため海外に留学してしまいます。「無縁坂」は、そんな切ない大人の恋物語を演出するのに良く似合う坂です。

(ストリートビュー)

柘榴坂

柘榴坂

その4:「柘榴坂」ザクロ坂と読みます。品川駅近くから上り坂になります。坂の名前はその辺りに柘榴の木があったので、その名前が付けられました。江戸時代には北側に薩摩藩の島津家の下屋敷があり、南側には久留米藩の有馬家の下屋敷があり、両家の広大な屋敷に挟まれた坂でした。この坂は、浅田次郎の小説「柘榴坂の仇討ち」の舞台にもなっています。彦根藩の下級武士志村金吾が、藩命を受けて、桜田門事件で命を落とした彦根藩主大老井伊直弼の宿敵である水戸藩浪人佐橋十兵衛を13年間の長きにわたり探し求めます。「柘榴坂」でようやく再会した時は、既に時は明治になり政府は「仇討ち禁止令」を発布してしまう。十兵衛は金吾に自分の首を切るよう切願するが金吾の気持ちが変わり、二人は妻子の元に返って行く。江戸から明治へ時代の狭間に生きた、二人の生き方が悲しくもあります。

(ストリートビュー)

六類の坂:キーワード(動物、植物)

 

文京区鼠坂

文京区鼠坂

その1:「鼠坂」文京区小日向にある坂、
森鴎外の小説「鼠坂」にも出てくる坂で、雨でも降れば、鼠でも通れなくなるといわれていました。そんなことから「鼠坂」の名前が付けられたのでしょう。現在は、石造りの長い階段坂でかなり急な坂です。

(ストリートビュー)

 

 

品川区東大井犬坂

品川区東大井犬坂

その2:「犬坂」品川区大井町にある坂で、坂の由来は不明です。徳川五代将軍綱吉の時代に、(生類哀れみの令)が1687年貞亨4年に発布され、特に犬を大切にすることになり、人間よりも犬が大切な時代がありました。この坂の名前が付けられた年代も不明ですが、この政令が犬坂の由来ではと考えるのは間違いでしょうか?
別名「へびだんだん」とも呼ばれ、その曲がりくねった形状から来たのではと思います。
坂の頂上付近には、元芝公園があり、周囲は鬱蒼とした木々が茂っています。昔はこの辺りから大井の海が見えたといわれています。
中野区にも、「犬坂」があります。地下鉄中野坂上駅から北西300mm位の処にあります。宝仙寺と宝仙学園の間にある坂です。この坂の由来も、野犬などを保護する施設があつたことから名付けられた坂です。これも江戸幕府の生類憐れみの令が影響しています。(ストリートビュー)

今回は、「江戸の坂」の名前から、江戸の町並みを想像しながら歩いてみました。「江戸の坂」には、故事が一杯詰まっています。 江戸時代の庶民生活等を想像しながら歩くのも、楽しく散歩が出来ると思います。

ご紹介した坂は「江戸の坂」のほんの一部分でしかありません。もっとご紹介したい坂も沢山ありますが次回に譲りたいと思います。
今回の坂のお話はこれでお開きにさせて頂きます。

次回は最終回として私が選んだ「江戸の坂」ベスト10についてご紹介させて頂きます。
以上                                関根敏弘

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